新・暮らしの経済手帖 ~時評編~

わたしたちの暮らしを大切にするための経済解説サイトを目指して開設しました。こちらは時評編で基礎知識編もあります。

通常の金融緩和を無効にしてしまう悪質デフレをつくった1990年代の日銀金融無策

1990年代末期に日本は金融緩和で金利をゼロにまで引き下げても、企業の投資が活発化しないという流動性の罠に陥ったことを前回まで3回に渡り述べました。

このような事態を招いたのは1997年に行った消費税5%引き上げや社会保障予算を含めた歳出切り詰めによる橋本龍太郎内閣の緊縮財政と同じ年に「新時代の日本的経営」などと言って労働者の賃下げや非正規雇用化を押し付け、コストカット一辺倒の経営を突き進めた財界、そして徹底した金融緩和政策を渋ってきた日銀の三者です。三者の緊縮シバキ主義がデフレを慢性化させ、それによっていくら名目金利を下げても実質金利が下がらないという現象を生んだのです。企業は負債を抱えられず投資や雇用をどんどん削るしかありませんでした。雇用状況は悪化します。

マスコミなどから「平成の鬼平」と祭り上げられ、バブル退治と称して急激な金融引き締めを行った三重野康日銀総裁の致命的な金融政策ミスについては既にこのブログで散々批判してきましたが、その後の日銀もごく一時期を除き金融極右路線を突き進みました。
三重野氏以降の日銀は金利を下げたら負けで、インフレ恐怖症といっても過言でないほど物価上昇(経済成長)を敵視するという偏狭極まりない金融政策観を持ち続けます。三重野氏は「インフレなき持続的成長」を掲げ、それを後の代の日銀総裁にまで引き継がせました。

当時の日銀総裁人事は大蔵省と日銀出身者のたすきがけ人事が通例になっており、日銀出身の三重野氏の後は大蔵省出身の松下康雄氏が総裁となりましたが、着任後より1995年の阪神淡路大震災や日米貿易交渉不調による円高と長期不況といった苦難が次々と襲い掛かってきます。さらに橋本内閣の緊縮財政の煽りによって金融機関の経営悪化や破綻が相次ぎ、日銀特融発動に踏み切りました。それによって平成金融恐慌の危機は沈静化しましたが、放漫経営の金融機関に対する公的資金の投入は国民の大蔵省や日銀に対する不信や不満を招きます。その後「ノーパンしゃぶしゃぶ接待汚職事件」と呼ばれる大蔵官僚並びに日銀職員と金融機関との癒着問題が発覚。それが止めになって松下総裁は責を負う形で任期半ばにして辞任に追い込まれました。

またこの時期は「日銀の金融政策に対する政治介入を排除し独立性を保つ」という大義名分のもとに日銀法の改正が行われます。これはバブル状態は当時のイケイケの政治家や大蔵官僚の緩和圧力を日銀が撥ねつけられなかったから起きたという理由で改正が進められたのですが、2007年のサブプライムローンショックで日本経済や雇用が瀕死状態であるにも関わらず、白川方明日銀総裁の頑迷な金融引き締め態度を変えさせることができなかったことにつながってしまいます。

松下氏の後任総裁として1998年に速水優氏が着任しますが、氏の消極的な金融緩和姿勢は目に余るものでした。氏の連続的な物価下落に対する見解は企業のコストダウンやアジア中進国等との国際競争や規制緩和がもたらしたもので心配するべきではないというものです。1997年以降のデフレスパイラルを「良いデフレ」と見なし放置し続けました。
また戦前に昭和大恐慌を引き起こした井上準之助のごとく「不況によって、非効率的な企業が淘汰される」といった清算主義的な態度もとっていたといわれています。

海外の経済学者やマスコミは速水日銀体制を徹底的に扱き下ろしてDisりまくりました。
世界で最悪の中央銀行総裁」 UK エコノミスト
日銀幹部は1人(中原伸之審議委員)を除いてジャンクだ」 ベン・バーナンキ教授(のちに米FRB議長に)
誤って歩行者を轢いたドライバーが、「ごめん」と言いながらもう一度バックして二度轢きしたようなものだ」 ポール・クルーグルマン教授

金融緩和政策に冷淡だった速水日銀でしたが、上に書いた金融危機への対処として1999年2月に世界初のゼロ金利政策を導入しました。そして2001年3月にやはり世界初の量的金融緩和政策、2002年11月に銀行保有株式の直接買入を行っています。
これだけをみると速水日銀もかなり金融緩和を頑張っていたじゃないかと思う人がいるかも知れませんが、緩和してちょこっと景気が上向いたらすぐ解除して、また景気悪化の繰り返しでした。
最初の1999年に行ったゼロ金利政策は速水日銀によって翌年2000年8月に宮澤喜一蔵相や堺屋太一経済企画庁長官らをはじめとする政界からの強い反発があったにも関わらず強行突破で解除されてしまいました。上に書いた日銀の独立性を盾にしてです。
しかしそれから間もなくITバブル崩壊でまたゼロ金利に戻す羽目になりました。前回まで書いたように流動性の罠にはまってゼロ金利政策でさえ効力を失って、前例のない量的緩和政策をやらざる得なくなったのです。これについても、中原伸之審議委員の孤軍奮闘があっての導入です。

速水日銀が金融緩和をやったといっても断続的で中途半端なものでした。
森永卓郎氏は当時の日銀金融政策を旧日本軍がやっていた戦力逐次投入と同じだと評しています。戦力を一気に投入して敵を潰すのではなく小出しを繰り返しにしてしまい、敵にすぐ戦力を潰され、また投入して潰され、じりじり戦局が悪化してしまうという愚策です。

私が別のたとえを出すならば病気や怪我のときに抗生物質を投与したものの、体の中の菌を完全に殺さないうちに投与をやめてしまい、生き残った菌が対抗生物質ウィルスとなって、次に抗生物質を投与しても効かないという状況に当時の日銀緩和は似ています。

企業の経営体力や労働者=一般消費者の購買力・意欲が十分回復しないうちに金融緩和をすぐ打ち切ることの繰り返しは結果的に企業と労働者=一般消費者の経済力を衰弱させていくことになります。短期間緩和をやってもすぐやめてしまえば企業や銀行は先行きを不安視し、思い切った投融資をためらいます。

この日銀体質は今の安倍政権と黒田東彦日銀総裁体制になるまで続きました。
次回以降小泉純一郎政権時代の量的緩和政策の話に入りますが、この政策もまた中途半端なところで解除されてしまいます。

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