新・暮らしの経済手帖 ~時評編~

わたしたちの暮らしを大切にするための経済解説サイトを目指して開設しました。こちらは時評編で基礎知識編もあります。

国民からお金を遣う自由や裁量を奪っていけない~国家社会主義的思考を撃つ~

突然ですが自民党が構想している憲法改正草案についての話をします。これは平成24年に作成され打ち出されたものです。

自分の憲法に対する考えについてですが、現行憲法を何がなんでも改正してはならないとまで主張するつもりはありません。昔は左派寄りでしたが、現在の自分は中道保守派です。

しかしながら自民党が草案した憲法改正案は読むと数えきれないほど国家主義的な思考が散りばめられており、個人を蔑ろにし公(官)への隷従を強要するような記述がてんこ盛りです。権力主義や官憲主義があまりに露骨で、箸にも棒にも掛からぬような内容になっており唖然としました。心ある経済学者たちが特に批判したのは財政規律条項が盛り込まれたことで、国民経済を無視した緊縮財政を押し付けられる危険があります。私はこんなひどい改正案ならば絶対改憲反対します。これのどこが自主憲法なのでしょうか?「国民は無知で自律心なんかないのだ。だから政治家や官僚が規律をつくってそれに従わせないと国民は好き勝手デタラメなことをするのだ」という見下した態度がありありと出ています。国民を自主・独立した個人と見なしていないのです。

いまにおいても自民に限らず日本の政治家や財務省をはじめとする官僚らは国家社会主義的な方向へと進みたがります。彼らは民間が国家という神輿を担ぎあげ支えているのだということを自覚せず「日本の経済は俺たち政治家・官僚がカネをばら撒いてやらないと回っていかないのだ」と思い上がっているのです。専横極まりない態度でしょう。

さてここからいつもどおり経済の話をしていきますが、人々が持つ財やそれを遣う裁量権を国家が収奪し、政・官がそれを独占しようという動きが幾度となく現れます。いま財政政策について取り上げ続けていますが、これについても我々が注意して政・官を監視しなければ国民の労苦によって生み出された財が、一部の人間に独占されるような形で横流しされるようなことになりかねません。財政政策はなるべく幅広く、国民に還元される形にしないといけないのです。

財政政策で多くの人が思い描く表向きのイメージはこんなものではないでしょうか。
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国はインフレ等のことを考えなければお金や国債を自由に発行することが可能です。ただし政府自身がモノやサービスという財を生産し創造することはできません。(警察や消防・防衛・教育などの公共サービスを除く) 財の生産は民間企業がやることです。
国が国債を発行して土木公共事業という財政出動をしたとしましょう。国は財の生産ができないために民間の建設業者に委託発注します。請負業者は国に対し財の見返り=報酬を要求してくるでしょう。国は建設業者に報酬という形で財を渡さねばならないのですが、財のかわりに貨幣で支払います。

下の図はモノやサービスといった財の視点でみた国の財政政策です。国債発行で財源を確保していると仮定します。
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国はモノやサービスを生産し、それを売って収益を稼ぐということはしませんから、税という形で別の国民が生産した財の一部をわけてもらうことしかできません。国が公共事業をやるときはある国民が生産した財を徴税と財政支出を介して公共事業を請け負った業者へと移し替えることになります。国民から見たら政府を介して建設会社に自分が生産した財を売って新しくできた道路や橋などの公共財を買った形です。
国債発行で新たな現金を生み出して国が財政出動を行った場合、それは公共財を生産した人たちへいろいろなモノやサービスと交換できますと書かれた約束手形(=貨幣)を報酬として渡したようなものです。その手形を受け取った人は別の国民から財を譲り受ける権限が与えられます。政府が公共財生産者に対しつくった約束手形のツケを国民が代わりに支払う格好です。
政府貨幣で財政出動の財源を調達したときも同じです。お金や負債の量だけ増えて財が増えなければ購入した公共財の支払いをインフレ税というかたちでします。ノー・フリーランチです。

戦前・戦中の日本は軍部が大量に戦時国債軍票などを発行して負債を発生させました。これで戦費を賄っていたのですが、物資は増えるどころか戦争でどんどん消費されていく一方でした。国民から鍋ややかんといった金属製品まで差し出させるようなことをします。徴兵で労働力が収奪された上に空襲などで生産設備が破壊され、財が極度に不足・貨幣と負債だけが膨張という状況になります。終戦後政府は戦時国債軍票を紙くずにして国民からの借りを踏み倒す形になりました。

財政拡張は一見国民に多くの財を国が供給しているかに見えますが、最終的に国民に税という形でその(公共)財の対価を支払わなければなりません。国が作らせた公共財が国民に大きな利便性と満足を与えるものであれば国民は納得してその対価として税を支払います。しかし一部政治家や官僚の恣意や独善だけでその公共財に多額のコストが投じられるならば後に増税となって国民からお金を自由に遣う裁量権を奪う形になります。

大きな政府主義は国民がお金を好きなときに好きなものを買うという自由を犠牲にしないといけません。それでも国民側が政府を強く信頼し、自らの財を税という形で預けるというのはひとつの価値観として認められるものです。それが嫌なら国による行政サービスがミニアムになることを覚悟して小さな政府主義を支持する。これも価値観です。それを承知で私の「意見」をいえば大きな政府主義は国民の満足を最大化するものではなく、国民の自由や裁量権を大きく奪うものであり、好ましいものではないということになります。

ちょっと前に私が田房永子さんの毒親マンガ「母がしんどい」の第1章 その3 「突然始まる習い事 そしてお年玉が……」を引き合いに出し、

田房永子さんの毒親マンガだが、この話は永子さんの母親が強引にピアノを習わせようとしただけではなく、そのピアノを永子さんが貯めたお年玉10万円で買わせている。子どもからお金を遣う自由を奪った例。」

「政治家や官僚が増税を推し進め、それで得た税収を自分たちの利権誘導のためのバラマキに遣うことは国民から好きなこと・ものにお金を遣う自由を奪うことである。田房永子さんの母親がお年玉を取り上げてピアノを買ったのと同じことである。日本の官僚組織は毒親だと思え!」

ツイートしたところ大反響を得て田房さんからもRTを頂いたことがあります。
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政治家や官僚らによる財政拡大は結局田房さんの母親が勝手にお年玉を取り上げ、田房さん自身が欲しくもなかったエレクトーンを無理やり買わせたのと同じことになりかねないので注意が必要です。国民側が「財政出動」とか「積極財政」しか言わないと勝手に政治家・官僚が国民たちが望まぬものを買って押し付けるようなことをやらかす可能性があります。桃太郎電鉄キングボンビーと一緒で「国民のみなさん ~を~兆円で買ってきたねん。ボクってエラいねん。ボンビーボンビー」などとやられたらたまりません。

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ここまで書いてくると「お前は病気や障碍で働けない人にも再分配するなと言いたいのか」とか、「医療や福祉予算までどんどんカットしろというのか」と思われてしまうかも知れませんが、私はむしろ社会保障・医療・福祉などの厚生予算はなるべく手厚くしてほしいという気持ちが強いです。(これでも私は大学時代に福祉学科を選んでいます)
前回と今回話していることは財政政策は結局国民の財が源なのだと言いたいのです。しかもそれは有限であるということです。財政政策が国民の希望や利益に沿う形にし、すべての人にまんべんなく配分されるものにしてほしいと思っています。

私はベーシックインカム賛成派なのですが、これを支持する理由はあらゆる財政政策の中で最も政・官の干渉が少ないものだからです。(逆をいえば政・官の抵抗に遭いやすい)
私たちのお金や財は私たちが自由に遣いたいものです。国が勝手にその裁量を奪うようなことはなるべく小さくしたいのです。お金のデモクラタイゼーション(民主化)を進めてほしいと願っております。

財政政策を厚生関係の予算に割り振ってほしいというのはあくまで自分の「意見」ですけどね。

*「政府支出乗数を考慮していないじゃないか!」と思われる方がいるかも知れません。
 今回の記事は財と貨幣のバランスについてが主題の話です。
 次回の記事「財政政策と乗数理論について」で乗数効果のことを書いておきました。

~お知らせ~
今後日本の政局や北朝鮮問題についての論考は下記ブログで掲載していきます。

「お金の生み方と配り方を変えれば 暮らしが変わります」

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