新・暮らしの経済手帖 ~時評編~

わたしたちの暮らしを大切にするための経済解説サイトを目指して開設しました。こちらは時評編で基礎知識編もあります。

ドイツで起きたハイパーインフレについて

前回からはじまりました「ハイパーインフレについて 」編ですが、まずその事例のいくつかを検証していくことから入ります。最初に選んだ事例は第1次世界大戦後のドイツで起きたことです。

本題に入る前に他の事例と共通していることを言いますと、多くの場合、貨幣の異常発行や供給・負債の膨張だけではなく、極端に財(モノやサービス)の生産・供給が圧倒的に不足していたことも確認できます。貨幣や負債をたくさん生んでも、それに見合うだけの財を持ち合わせていれば悪性インフレにまで至らないものです。ドイツで起きたハイパーインフレも例外ではありません。確かに第1次世界大戦の賠償金が重く圧し掛かったことが主原因であることは否定できませんが、財の供給がひどく低下したことも無視できません。
経済を知る上でお金だけのことではなく、財(モノやサービス)の方も見ないといけないのです。

ドイツの方に話を戻しますが、第1次世界大戦後、ヴェルサイユ条約によって負けた同盟国側であるドイツはフランス・UK・ロシアなどの連合国側から1320億金マルクにも及ぶ巨額の賠償金を背負わされます。これは当時のドイツの総所得の2.5倍に及ぶもので、向こう30年間に渡り支払わねばならなくなりました。支払いにつかう貨幣といっても黄金と交換できる正貨であり、5000両の機関車、15万両の列車、5千台の貨物自動車、4万頭の牛、12万匹の羊といった物納も入ります。

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ちなみに連合国側だったUKで賠償額策定を任ぜられたのは大蔵官僚だったジョン・メイナード・ケインズです。ケインズはドイツの支払い能力を超えるような巨額賠償金を負わせることに反対しました。ケインズはドイツがその賠償金を捻出するために緊縮財政で強引に財政黒字を発生させねばならず、これがドイツ国民の生活を疲弊させ、労働意欲や生産力も低下してしまうことによって、結果的に債務償還能力がさらに下がることを警戒したのです。
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しかしながらケインズの危惧をよそに連合国側はドイツに重い賠償金を背負わせ、補償委員会に監視させることで厳しくその取り立てを行いました。これによってドイツの通貨マルクはどんどん下落し、ますますその負担は重くなります。

ここまでの説明だけですと、ドイツは連合国から巨額の負債を抱えて、さらに自国通貨が暴落したからハイパーインフレになったのだと短絡的に考えてしまいそうですが、見落としてはいけない点があります。それはケインズが反対したように緊縮財政やフランスやベルギーなどが強要した資源の物納やルール工業地帯の占拠でドイツの生産・供給能力が落ちてしまったことです。

フランスとベルギーがルール工業地帯を占拠してしまったのはドイツ側の賠償が滞りがちになったために、両国は6万人規模の軍隊を派遣してここを占拠しました。ルールはドイツ有数の工業地帯であり、さらには石炭などの資源も豊富に埋蔵されていた地です。ドイツにとって金の卵を産む鶏のような存在でした。それをフランスやベルギーに押さえ込まれてしまったのです。
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これに対しルールの労働者たちは当時のドイツ首相だったヴィルヘルム・クーノの後ろ盾でストライキを起こし、フランスやベルギーに抵抗します。これによってルールでの工業生産活動は停止してしまい、ドイツは圧倒的なモノ不足状態に陥ります。労働者の28%が失業者となり、42%が不完全就労状態になります。これにより中産階級は没落し、大企業のコンツェルン化が加速しました。
クーノ首相はストライキ中の労働者の賃金を補償していたのですが、財源がなかったために紙幣を大量発行してそれを賄います。これがハイパーインフレを引き起こした元凶のひとつとなります。

さらに貨幣の異常膨張を許した原因はもうひとつドイツの中央銀行にあたる帝国銀行(ライヒスバンク)がドイツ政府や議会を無視して紙幣を好き勝手に発行してしまったという理由もあります。
当時のライヒスバンクはドイツ政府ではなく、連合国側の賠償委員会の監視下におかれており、モルガン商会などといったウォール街の金融業者に牛耳られておりました。彼らはドイツ政府や議会の意向を無視して好き勝手放題にドイツ政府が発行した国債の大量購入や企業の手形の割引も行って債券の現金化を次から次へと行っていました。モノ不足にも関わらず、それを無視するかのように異常な量のマネーが発生したのです。
おまけにフランス軍ライヒスバンクが所有していた128億の金を略奪し、ミュルハイム国立銀行支店に保管されていた未完成の紙幣まで奪って、これを完成紙幣にして流通させるようなこともやっていました。

ちなみにこれで荒稼ぎしていたのは金融業が得意なユダヤ人であり、ヒットラーはこれを見てユダヤ人に対する憎悪の念を深めたとも云われています。

ドイツで起きたハイパーインフレの凄まじさを述べると
1923年においては一年間でパンの値段なんと16億倍も上昇します。
「コーヒー一杯飲むのにトランク一杯分の紙幣が必要だったが、飲んでいる間にトランク2杯分に値上がりしていた」「薪を買うのにリヤカー一杯の紙幣が必要だった。それより紙幣を燃やした方が安くついた」「昨日までハム・サンドイッチがたった1万4000マルクだった同じ喫茶店で、今日はそのサンドイッチが2万4000マルクとなった」などなどすごい話がいくつも遺っています。
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ドイツの政権はルール闘争の失敗とインフレの責任をとって辞任したクーノからグスタフ・シュトレーゼマン政権へと代わります。シュトレーゼマンはフランスのルール占拠に抵抗していた勢力から「売国奴」と激しい罵りを受けつつもクーノが行っていたルールで行っていたストライキを停止させました。

それからさらにヒャルマル・シャハトライヒ通貨委員に着任します。シャハトはこのハイパーインフレを抑え込むために私的貨幣の流通を禁止し、レンテン銀行の設立とこの機関が不動産を担保とする形で発行する新貨幣・レンテンマルク)の導入により、激しいインフレを一気に収束させました。「レンテンマルクの奇跡」です。

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 ヒャルマル・シャハトレンテンマルク

レンテンマルクは1レンテンマルク=1兆マルクと交換され、デノミネーションとなりました。レンテンマルクは金と兌換できない臨時通貨でしたが、市中に広まり、さらに新法定通貨ライヒスマルクとの交換も可能になります。(実際には長く併用されていた。)

このハイパーインフレを封じ込めたシャハトは「財政の魔術師」と賞賛されたのですが、その後1926年にドイツ民主党の左派寄り・リベラル志向を倦厭するようになり、同党を離党し、右派・保守派と接近するようになっていきます。1929年の世界大恐慌のときにおいてはアメリカの銀行からの融資で不足財源を補う案にシャハトは反対し、租税で財政赤字を賄うべきだと主張します。
それからさらにシャハトはヒットラーの「我が闘争」に感銘を受け、ナチ党に入党してしまいました。ナチス政権初期の経済政策に大きく関わり、戦犯扱いされることになります。非常に毀誉褒貶が極端な人物でした。

最後に今回述べた主旨をもう一度述べますと、ドイツのハイパーインフレは紙幣の濫造が大きな原因であることは否定できないけれども、工業生産活動停止による物資不足も無視できないということです。それともうひとつハイパーインフレがそのままナチスの台頭に直結したわけではないことも注意が必要です。この激しいインフレ後ドイツは好景気を迎え、1928年まで「黄金の20年代」と呼ばれています。

次回はナチス台頭の背景についてです。

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