今はどうか知りませんが、中学や高校の世界史の教科書などで書かれている第2次世界大戦前のドイツに関する記述はドイツが第1次世界大戦で敗戦国となり、連合国側から多額の賠償金を負わされたことによってハイパーインフレに陥った。これによってドイツ人は冷静さを失ってナチスを支持してしまったというものではなかったでしょうか。
自分がかなり以前に読んだ紫頭のおばさんが書いたノストラダムス本にもそんな記述がありました。
このドーズ委員会はアメリカの財政家・チャールズ・ドーズを委員長とする特別委員会で、同じ連合国側ながらフランスの強硬なドイツへの賠償請求態度に反感を持っていたUKや事態を見かねていたアメリカが設置したものです。フランスに新賠償方式を呑み込ませ、ドイツの経済復興を促すことが狙いでした。
ドイツが支払う賠償金の年額負担を低く抑え、支払いはドイツ通貨となり、外貨への転換は受け取り国が行うことになりました。これによってドイツの経済事情を無視した無茶な取り立てをしなくなります。
さらにドイツの賠償金支払いのための公債を募集してドイツに借款するドーズ債が導入されます。ドイツはアメリカ資本から資金調達を得て経済復興と賠償金支払いを行うことができるようになりました。その後ドイツは「黄金の20年代」と呼ばれるほどの好景気期を迎えます。この間ナチ党の支持は高まらず、活動は停滞した状態でした。
ナチ党やヒットラーの勢力が伸び始めるのは、ドイツの景気が再び悪化し出したときからです。
1928年頃のアメリカは空前の株式バブルの真っただ中で投資家たちはドイツへの投資から株投機へと資金を振り向けます。それによってドイツは資金不足気味となり、景気が失速します。それから間もなくそれに追い打ちをかけるように1929年にアメリカで株バブル崩壊による世界大恐慌が発生してしまいました。アメリカの金融業者はドイツへの貸し付けを中止し、債務の返済を要求します。
世界中で深刻なデフレが拡がり、ドイツでは失業率が4割にも達してしまいます。
ドイツの賠償問題ですが、ドーズ案では決まっていなかった賠償金総額や支払い年数をきちんとはっきりさせ、さらに賠償額を大きく減額することを盛り込んだヤング案が批准されます。このヤング案は連合国側がかなり譲歩したものでドイツ側の債務負担がかなり軽くなりましたが、それでもドイツは59年間に及んで連合国側に賠償金を支払い続けねばならないという内容にドイツの右派をはじめ数多くの民衆たちが「ドイツ国民奴隷化法案」だとヤング案に激しく反発しました。このヤング案の交渉にヒャルマル・シャハトが当たっており、途中で会談が決裂しかけております。
このあとドイツ国民の経済停滞とヤング案に対する怒りが沸点に達し、極右や極左政党の支持がものすごく高くなっていきます。その中でもヒットラーのナチ党が最も強い支持を集めました。それからさらにナチ党はじわじわ勢力を拡大し、1933年にヒットラー内閣が発足します。
ここまで見てきたとおり、ヒットラーの台頭はドイツ国民の第1次世界大戦後連合国側から押し付けられた巨額で重い賠償負担に対する積年の大怨と1928年以降の経済苦境が引き起こしたひどいデフレによるものだと見るべきでしょう。「ハイパーインフレがファシズムを招いた」という見方はしにくいです。
さらにもう少し詳しくヒットラーが政権を獲る直前のドイツの経済政策を確認してみましょう。
ドイツ経済が失速した1928年頃の首相は社会民主党(SPD)のヘルマン・ミュラーでした。ヴァイマール共和国体制の中では長寿政権でしたが、1929年の世界大恐慌で失業者が大量に溢れてしまい、政府は失業保険の支払いが急増しました。ミュラーはその財源確保のためにギリギリの妥協線として失業保険を0.25%引き上げる提案をしたのですが、労働大臣ウィッセルの同意が得られるずミュラー内閣は退陣に追い込まれました。
その後ドイツ中央党のハインリヒ・ブリューニングが新首相となるのですが、賠償金をはじめとするドイツが抱えた対外債務の処理を優先し、ひどい不景気であるにも関わらず金融引き締め(公定歩合引き上げ)と緊縮財政・賃下げに舵を振ってしまいます。先のハイパーインフレの記憶がまだ生々しく遺っている時期であり、外債依存が強かった当時のドイツ経済において過大インフレを引き起こす懸念が強かったことが、平価切下げや金融緩和を躊躇わせたのでしょう。当時金本位制離脱をする国が多かったのですが、ドイツは遅く1931年まで離脱しませんでした。ブリューニングは国債の発行で落ち込んだ税収を補うのではなく、歳出削減と増税で財政危機を乗り切ろうとします。失業保険支給を打ち切り、公務員の給料を引き下げました。
ところがブリューニングの緊縮政策はドイツ経済をさらに苦境に追い込みます。ナチ党の勢力拡大でますます外資が逃げてしまったという事情も重なりますが、1931年あたりからドイツの主要銀行がどんどん倒産して金融危機を迎えてしまいます。国は新たな起債ができないは、外債も調達できないはでますます経済的苦境が深刻化しました。結局ブリューニング政権は1932年5月に崩壊します。
ヒットラーは多くの国民の前で失業対策を第一の目標とすることを宣言しました。
「我々の義務は、国民に仕事を与え、失業の淵へ再び沈めさせないことだ。上流階級が多量のバターを得ることよりも、大衆に安価なパスタを供給すること、それよりも大衆を失業させないこと。これこそが重要なのだ」
「我々のなすべきことは、失業対策、失業対策、そして失業対策だ」
ヒットラーは政権獲得後に大量に国債を発行し、アウトバーン建設などの大規模な公共事業を行ったり、若者に兵役に就かせることで失業率を下げていくようにしました。さらに大企業と富裕層に増税を行い、株などへの投機行為も厳しく取り締まっています。かなり国家社会主義的な財政拡大による景気拡大という経済政策手法で、財源をメフォ手形と呼ばれる割引手形の大量発行に依存するものでしたが、それでも失業者を大きく減らしています。1936年には国民総生産が1932年比で50%増加し、国民所得が42%、工商業各指数生産指数が88%、財・サービスへの公共支出が130%、民間消費指数が16%も増加しています。
それと前回の記事「ドイツで起きたハイパーインフレについて 」でヒャルマル・シャハトがレンテンマルクの発行とデノミでハイパーインフレを抑え込んだことを紹介したですが、この人物はドイツの深刻なデフレ進行や初期ナチ党政権の財政に大きく関わっています。このことがシャハトの晩節を汚すことになりました。
シャハトはナチ党に請われる形で経済相とライヒスバンク総裁に就任し、雇用政策や軍備拡張の財源を確保しはじめます。政府が国債を発行する形ですと財政不安を増長させ国債暴落を引き起こしかねないために、政府外郭団体でトンネル会社というべきメフォを設立して、そこが政府のかわりに債券を発行し資金調達をしました。政府はメフォに兵器の発注をさせて代金を手形決済で支払らわせます。その手形はライヒスバンクが保障し、大量の資金を集めることができました。これですと表向き政府は国債を発行していない形ですので財政赤字が計上されず、国債価格を暴落させずに資金調達が可能となります。トンネル融資や迂回融資みたいなものです。
この辣腕ぶりからシャハトは「財政の魔術師」という異名が授けられ、この事実だけを見ると積極財政派のように思われるかも知れません。しかし1920年代のシャハトを見ると負債を増やすことを嫌い、世界大恐慌のときでさえ、租税と歳出削減による財政黒字の拡大を計ろうとしたり、金本位制への執着が見受けられます。
1928~29年の間に社会民主党(SPD)のルドルフ・ヒルファーディング蔵相と大蔵次官ヨハネス・ポーピッツが世界大恐慌の発生で不足する財源を外債を発行しようと決意し、アメリカの銀行がこれに応じようとしていましたが、当時ライヒスバンク総裁だったシャハトは赤字は租税で賄うべしとして反対を表明します。ドイツの外債を引き受けようとしていたアメリカ銀行も離れてしまいました。シャハトはナチ党の勢力拡大の元凶のひとつである緊縮財政の下地をつくった上に、1930年にライヒスバンク総裁を辞した後、ヒットラーの「我が闘争」に陶酔し自らナチに近づいていったのです。前回申しましたとおり、シャハトの評価は毀誉褒貶が二分してしまうことになります。
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