中南米で起きたハイパーインフレの経緯を辿っていますが、今回はアルゼンチンです。この国もやはり第2次世界大戦後からオイルショックまでは富裕国のひとつで「世界を制するのはアメリカかアルゼンチンか」と言われるほどでした。しかし50年間で底辺国へと没落してしまいます。
サイモン・グズネッツ教授が発した言葉で有名なのは「世界には4つしか国がない。先進国と途上国、そして日本とアルゼンチンである」です。ベクトル的にはアルゼンチンと日本は逆の方向となったのですが、類似点も見受けられます。調べる価値がありそうです。
もう一度アルゼンチンの歴史を振り返ってみますと、やはりファン・ペロン将軍の存在がこの国の命運に大きく関わったことがわかります。アルゼンチンは第2次世界大戦前にナチスドイツ式の国家社会主義に傾倒した軍人たちが1943年にクーデターを起こしたことにより、軍人政権が生まれるのですが、ペロンもその青年将校のひとりでした。彼が労働局長官を務めていたときから頭角をあらわし、労働者の間で圧倒的な人気を得て1946年に大統領となります。反米・左派色が強い人間です。
ファン・ペロン大統領は他の中南米諸国同様に工業化による経済発展を重視しつつ、同時に手厚い労働者保護や社会保障充実の政策も行うという半社会主義的手法を好みました。ところが重化学工業偏重の保護政策による経済戦略で、しかも国営・国策企業にそれをやらせる形であったために、歪な産業構造をつくってしまいます。アルゼンチンはパンパ草原など肥沃な農地を有しており、農業や牧畜業が盛んでしたが、ペロン時代に農業で得た貿易黒字を重工業分野に回してしまい、冷遇しました。これによってアルゼンチンの農業や牧畜業は衰退します。第2次世界大戦中に集めた外貨は工業化のための投資で使い果たしました。
ペロンの夫人で人気のあったエビータことエヴァ・ペロンが癌で死去したのを契機にペロン政権もおかしくなり、1955年の軍部保守派によるクーデターによって彼は失脚・亡命しました。この後も軍部保守派とペロニスタたちの対立が延々と続き、何度も両者でクーデターを起こして政権奪取しては潰れを繰り返すことになります。
アメリカとCIAの支援を受けた軍事政権はペロニスタや左派への抑圧や弾圧を繰り返し、3万人以上も抹殺する一方で、ブラジルに倣った官僚主義的権威主義体制とアメリカをはじめとする国際金融資本から融資を受けて重工業化とモノカルチャー経済への産業構造転換を計ろうとします。しかし役人や政治家は平然と賄賂を要求する有様で、民衆の間に不満を募らせた挙句に産業政策そのものも失敗します。そうこうしているうちに天文学的なひどいインフレが発生し出しました、
1982年に就任したガルティエリ大統領は、イギリスが実効支配を続けているフォークランド諸島を奪還しようと軍を派遣して占領しますが、イギリスのマーガレット・サッチャーの逆鱗に触れ、反撃を喰らいアルゼンチン軍は破れます。
これによってアルゼンチンの軍事政権は崩壊し、インフレは年率5000%にも及びました。
その後ペロン党ながら親米・新IMFで新自由主義的なカルロス・メネム政権が関税の引き下げ・貿易自由化や国営企業の民営化と投資制限撤廃を行います。これによって90年代前半には経済成長を取り戻すとともに、通貨ペソをドルペッグの固定相場制にしてハイパーインフレを抑えることもできました。アメリカなどの海外資本が通貨変動を気にせず投資しやすい環境を整えます。
ところがメネム政権末期に投機家たちがアジア諸国の通貨を空売りしたことによってアジア通貨危機が発生し、ドルが急上昇します。その影響は中南米諸国への襲い掛かかってきました。そんな中でアルゼンチンはIMF(国際通貨基金)の融資支援を受けながら必死に投機家の売り攻撃に防戦し、ドルペッグ固定相場維持と自国通貨ペソの下落を阻止します。
アルゼンチンが1ペソ=1ドルのドルペッグに固執した理由は国民の8割がドル建てローンを組んでおり、ペソ安・ドル高になってしまうと、一気に返済額が増えてしまうことがあったからですが、もうひとつはウォール街の投資家たちが1ドル=1ペソが続くことを前提にアルゼンチンに投資していたためで、アメリカやIMFが固定相場の撤廃に反対していたからです。
しかしながらそのために無理してペソ建て国債の金利を高くし、かなりの金融引き締めとなりました。このことが国内企業の資金調達コストを上げてしまい、投資が激減します。日本でも同時期に日銀が金融引き締めをはじめてしまい、国内企業の投資が一気に冷え込みましたが、アルゼンチンも日本と同じ状況になってしまいます。
さらに皮肉なことにペソ高・ドルペッグ維持がブラジルとの輸出競争に負けることになってしまいました。ブラジルはアジア通貨危機のときに耐えきれず自国通貨レアル引き下げを行ってしまったのですが、これによって輸出を盛り返せました。逆に通貨高のアルゼンチンは輸出不振と上で述べた企業の投資萎縮によって11%にも及ぶマイナス成長への転落と失業率20%という事態を生み、国民の4割が貧困層となる悲惨な状況を招きます。これもまた日本の円高不況と同じ構図です。アルゼンチンは日本の「失われた20年」をもっとひどくしたような状態でした。こうして1950年代は豊かな先進国だったアルゼンチンは半世紀で見るも無残な底辺国に成り下がります。
アルゼンチンは経済悪化と共に国家財政危機も進行し、国債の金利も上昇していきました。海外への預金流出も激しくなる一方で外貨準備金も不足してしまいます。政府はIMFに緊急支援を要請しますが、IMFからかなり厳しい緊縮財政を要求され、政府議会はそれを認めなかったためにIMFは融資を断りました。IMFはアルゼンチンを見放したのです。ついにアルゼンチン政府は結局2001年にデフォルト(債務放棄)を宣言し、ドルペッグを捨てて変動相場へ移行することになりました。これによって悪性インフレが再発します。
2002年あたりには高失業と賃金低下の中で消費者物価上昇率は40%に急騰しました。食料品や物資が不足し、馬やカエル、ネズミを食べて飢えをしのぐ人もいたぐらいです。治安もかなり悪化しました。
しかしながらデフォルトと通貨切り下げによって、その後のアルゼンチンの輸出は拡大していき、多少なりとも経済が回復基調に戻っていきます。2003年に同じペロン党ながらメネムとは真逆の左派・反新自由主義経済派で互いに反目し合うネストル・キルチネルが大統領となりますが、「われわれはIMFにチャオを告げた」と訣別宣言をしました。この政権はIMFの干渉を排除するため百億ドル近い債務を完済した上に、24%もあった失業率を、2006年5月には11.4%にまで改善します。さらに、2003年から2007年まで平均約8%の高成長を続けました。
アルゼンチンは未だに3割の貧困層を抱えたままで、内需の拡大がなかなか進まないなど大きな問題を抱えたままです。政治的にもキルチネル夫妻のような反米・左派といまのマウリシオ・マクリ大統領のような国際金融資本重視・緊縮志向の右派との間で何度も政権を交代し続けています。
キルチネル大統領の妻だったクリスティーナ・フェルナンデスが後継大統領となったものの、ペロン流のバラマキで国家財政が再び悪化し、通貨安を食い止めるために国民に外貨保有制限や海外での支出に課税するといった統制経済を敷きます。これによってアルゼンチン国内で米ドルで取引する闇市が拡がってインフレが加速してしまう現象を引き起こし、フェルナンデス政権は退陣に追い込まれます。
その後に現職のマクリが大統領に就任して、為替規制撤廃などフェルナンデスと真逆の政策を打ち出しますが、上で述べた緊縮財政が国民の不満を募らせた挙句に、アメリカの金融緩和が出口戦略に向かい、金利が上昇してきたために、グローバル金融資本はハイリスク・ハイリターン狙いで投資していた中南米への投資をローリスクのアメリカに向け出してしまい、ドル資金が中南米から逃げてしまいました。メネム政権の繰り返しみたいなことになってきています。
アルゼンチンの事例を検証していくとバブル崩壊以後の日本と似た道程を歩んできたことにも気づかされます。1990年から2012年まで続いた「失われた20年」というべき日本のデフレ経済がこのまま進行していたとしたら、アルゼンチンと同じように没落していった可能性があります。
*2018年5月17日に現在のアルゼンチン経済の状況について書き加えをしました。
参考記事1
加谷珪一氏 「アルゼンチンが経済危機を繰り返す最大の理由 」
*2018年6月9日 参考文献追加です。
原田泰教授・黒田岳史氏 「なぜアルゼンチンは停滞し、チリは再生したのか」
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