新・暮らしの経済手帖 ~時評編~

わたしたちの暮らしを大切にするための経済解説サイトを目指して開設しました。こちらは時評編で基礎知識編もあります。

公正な所得分配って何?~justiceを求める旅~

よく「貧困と格差問題」という言葉が使われますが、今回は後者の「格差」について考えてみたいと思います。
「格差」と言っても結構ふわとした意味になっております。経済問題を扱うここでは基本的に資産や所得の格差、生産されたモノやサービス、その交換媒体であるマネーの分配量の格差ということで話をしますが、人間が生まれ持って背負ってきている身体や能力、生育環境の格差というのも無視できないものです。

「格差」という言葉はいい意味で使われることはないのですが、世の中で生産されたモノやサービスをすべて同じ量で分配したり、逆に一律同じ額の税徴収とか負担をすべて人に負わす「平等」がいいことなのかというと決してそんなことはありません。先ほど述べたように同じ人間でも背の高い人もいれば低い人もいますし、生まれつきものすごく頭のいい人がいたり、そうでなかったりします。ものすごく運動ができる人がいるかと思えば全然ダメな人もいる。何十年大きい病気ひとつしない人がいるかと思えば幼少期より難病に苦しむ人がいたり、重い障碍を抱えている人もいます。

経済・社会問題として取り上げるべき格差というのは不公正な所得(再)分配で生じる格差のことです。

ネット上で見つけたものですが、こんなイラストがありました。
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このイラストには「平等は正義を意味するものではない」と書かれています。
左の図は背の高い子どもから低い子どもまで同じサイズの足台を与えていますが、背の低い子どもは高い塀によって野球の試合が観戦できません。一方右の図は背の高い子どもには足台を与えず、中ぐらいの背の子どもには箱を一個だけ。背の低い子どもは2個の箱を与えています。これなら3人とも高い塀越しから野球を観戦できます。与えている足台の箱は平等・均等分配していませんが、機会の平等性は与えられています。

なお右のイラストは「正義」と記されていますが、これは英語でいうと「justice」で公正とか適正といった訳語の方が本来ふさわしいでしょう。佐々木俊尚さんが興味深い記事を書かれていました。


justiceは天秤のようなもので、個人と個人の間で交わされる社会的合意によって定まるものといえましょうか。

共産主義思想のように財産の一部または全部を共同所有することで平等な社会をめざすことが、すべての人の幸福につながるのかというとそうではないことに気づかされます。共産主義はjusticeといえないのです。

もうひとつ所得の(再)分配で考えねばならないのはモノやサービスの生産・獲得あるいは社会・共同体での貢献に対する報酬です。モノやサービスあるいはマネーといった財を多くの人に広くまんべんなく分配していくことは当然なのですが、それを生産・獲得するために多くの労力や身の危険を冒した人たちに手厚く分配しないと、その人は大きな不満を持つでしょう。労苦や貢献に応じた報酬を支払わなければ、次にまた同じ労苦や危険を背負ってまでモノやサービスの生産・獲得をしようと動く人がいなくなります。あと戦争が起きたときに自分の命の危険を冒してまで戦場に出向く兵士にも褒章が必要です。

かつてタリーズコーヒーの経営を行ったり、みんなの党と日本を元気にする会で参議院議員を務められきた松田公太さんのブログ記事に興味深い話が書かれていました。「人間とインパラの雄」というものです。

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インパラという動物は草食動物ですが、彼ら・彼女らの社会は一夫多妻型で他のオスとの闘いを勝ち抜いた一頭の強いオスが多数のメスがいるハーレムの中に入ることが許されます。ハーレムのオスは多くのメスや縄張りの中で餌となる草木を独占できますが、その縄張りをたった一頭で護らないといけません。当然天敵である肉食動物に捕食されてしまう危険に晒されます。一度ハーレムの座についても他のオスが下克上を狙っており、長くもっても数ヵ月で王座から引きずり降ろされるようです。

人間社会でも似たような例があります。西洋の王侯貴族です。
彼らは平時において領民からたくさんの税を貢いでもらい、日々贅沢三昧、遊興の限りを尽くせますが、戦争になったときは真っ先に兵士として命を懸けて戦場に向かわねばなりません。イギリスの王家であるウィリアム王子やヘンリー王子もその習わしに従い軍隊に入隊し戦闘に参加します。

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攻撃型ヘリ「アパッチ」に載り込むヘンリー王子

有事の際に自らの身を危険に晒し、命がけで闘うのが本来のエリートといえるでしょう。その代償として人々から多くの富や財を分配させてもらえるのです。

このようにして考えてみるとモノやサービスを公正(justice)に(再)分配するためのルール(約束事)や契約というのはかなり複雑でややこしいものにならざるえないのかなあと思わざるえません。その複雑さ故に嘘や誤魔化しみたいなものが紛れ込みやすいのです。
あるときには公正だと信じられ、共同体内で社会的合意(コンセンサス)が得られた(再)分配のルールや契約であっても、時間が経つにつれ、他者を欺いてたいした貢献もせずに多くの富や財を詐取してしまうようなフリーライダーやレントシーカーが現れて公正さが失われたりします。

先日役員報酬を実際より約50億円少なく有価証券報告書に記載したため金融商品取引法違反で東京地検特捜部に逮捕された日産のカルロス・ゴーンですが、彼も来日当初は日産の経営危機を救うことで多大な貢献をしました。そこまでは良かったのですが、再建した日産を自分やルノーのサイフにしてしまい、会社から億単位のカネを貪るようになっていったのです。

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数十億単位のゴーンの報酬についてかねてより、「高すぎる」「いや世界的に見たらたいした額ではない」といった賛否両論の声か出ていましたが、どうはともあれその額はjusticeと判断されていたことになります。
この事件を契機に企業経営者・役員の報酬について、日産をはじめ他の多くの企業でも見直しをせざる得なくなるでしょう。報酬額を減らすというより、合理的な業績連動型の報酬制度とし、会社の業績向上に貢献すれば報酬が上がり、そうでなければ減る仕組みにしていくことです。

人類はこの世に登場して以来ずっと、公正な所得・資産の分配のあり方を追い求め続けてきたといえましょう。
クニが生まれる前の原始時代にも共同体内でボスやリーダーらしき存在の人物がいたことでしょうし、原人であるネアンデルタール人は事故で腕を失くしたりや失明した仲間にも狩りで得た食料を分け与えておりました。共同体の中で互いにjusticeだと認め合える獲得物を分配するルールが存在していたことでしょう。
原始時代からクニが発生し、古代へと移行してくると分配のルールは複雑になってきます。そのルールの在り方を巡って政治闘争や戦争あるいは民衆たちの反乱が起き、その度ごとに分配ルールが変わってきた歴史があります。古代の王政による分配ルールから中世封建社会での分配ルール、そして資本主義経済と民主主義・自由主義政治に基づく分配ルールへとつながってきました。社会主義共産主義革命や国家の発足もまたより公正かつ平等な分配ルールを追い求めたものでしたが、新たな制度矛盾を生んで崩壊していったのです。
人類はひとつの分配ルールを作っては壊し、作っては壊しを繰り返してきたといえましょう。

今後も人類は永遠に公正な資産・所得(再)分配のあり方を求め、議論をたたかわせ、旧いルールを壊し、新しいルールを作ることをし続けることになるかと思います。

中島みゆきさんの「世情」と同じく
「変わらないものを何かに例えて そいつが崩れちゃそいつのせいにする」
「包帯のような嘘を見破ることで 学者たちは世間を見たような気になる」
の繰り返しですね。

こちらでも政治等に関する記事を書いています。

「お金の生み方と配り方を変えれば 暮らしが変わります」

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