新・暮らしの経済手帖 ~時評編~

わたしたちの暮らしを大切にするための経済解説サイトを目指して開設しました。こちらは時評編で基礎知識編もあります。

資本主義経済黎明期における工業化と都市化が生んだ新たな貧困や格差の発生~~

2つ前の記事で経済要因の不況や貧困・格差問題の発生は構造要因型と景気循環要因型の2つがあると話をしました。ここから構造要因型の貧困・格差問題について考えていきましょう。時代は封建時代の中世から資本主義経済が生まれた近代へと移行する過程で現れた貧困・格差問題です。

資本主義経済というシステムはイングランドで18世紀半ばから19世紀半ばにかけて起こった産業革命が大きく関わっていますが、それよりもっと時代を遡ってヨーロッパで封建社会制度が崩れていく過程から話をはじめます。この封建制度は主君が家臣に土地を与え、そこに農民を隷属させる統治システムであり、富や財の分配システム・・・・・いや収奪や搾取システムといえましょう。
封建制度は農耕社会を前提としたもので、貴族や領主は農奴から年貢を取り立てる形で富や財を成してきました。当初は商工業活動がその制度に組み込まれることがなかったのですが、農耕の生産性の向上によってだんだんと余剰生産物が発生するようになり、農産物以外の商工業活動が活発になってきます。それによって手工業製品マニュファクチャリング)の生産やそれによって産みだされた商品を交換する市場(マーケット)となる都市が発生しました。それと同時に貨幣経済も発達します。

ヨーロッパではキリスト教の聖地エルサレムイスラム教徒から取り戻そうと、ローマ教皇が騎士(ナイト)である領主や貴族らを徴兵して十字軍を結成し、1096年から1270年まで7回もトルコに対して十字軍を送り込みました。封建領主や貴族らは普段自分が支配している領地の農民から多額の年貢を納めてもらい、多くの富や財を得て贅沢ができましたが、前回少し書いたように戦争になったときは兵士として従軍する義務があります。十字軍の遠征は厭戦となりエルサレムを取り戻すことはできないままに終わり、このおかげで教会と封建領主たちは疲弊して没落していきました。領地を遺して戦死してしまった騎士もいます。封建時代に力が弱まっていた国王がここぞとばかりに中央集権化を進め、絶対王政を敷く下地を固めていきます。16世紀あたりのことです。ヘンリー7世の代からはじまり、エリザベス1世の代で絶頂期を迎えたイングランドテューダー朝や、アンリ4世が興し太陽王ことルイ14世ときに最盛期だったのフランスのブルボン朝がそうです。

絶対王政を敷いた国王たちは農民からの年貢を一極集中でかき集められるようにしますが、それだけでは官僚や常備軍を抱えるための財政が足りないので、商工業活動や貿易活動を盛んにして税収を賄おうとします。これによって農耕型の封建制度は崩れ、商工業中心の経済システムに移行していきました。「重金主義」や「重商主義」といった考えが生まれます。

封建社会から資本主義社会へと転換していく過程で農地や農民たちもその変動に呑み込まれます。それによって農民たちが生産活動を行い、収穫物を得てきた土地を追い出され、都市に流れ込み、流浪人となっていくのです。
先に述べた十字軍の遠征でヨーロッパとアジアの交流が活発化し、15~16世紀あたりで貿易が盛んになってきました。イングランドは毛織物が主力輸出品で稼ぎ頭となっていきます。ところがイングランドは小さな島国で羊を飼う土地が非常に少なく、羊毛の生産を伸ばせません。そのために地主(ジェントリー)が農民から強引に農地を没収し、そこを柵で囲い込んで中で羊を飼い始めるということをやりはじめるのです。これを「囲い込み(エンクロジャー)」といいます。(ただしイングランドの全ての農村地が囲い込みを受けたわけではなく、一部の限られた地域で起きたに過ぎず、囲い込みが原因で貧民層が増加したわけではないという説もある。)
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16世紀にイングランドテューダー朝ヘンリー8世に仕えていた法律家で人間中心主義者(ヒューマニスト)の思想家であったトマス・モアは地主が勝手に農民を農地から追い出してしまうこの蛮行を著書「ユートピア」で「羊が人間を喰う」と批判します。ちなみに彼は後にヘンリー8世が教皇の許可なくキャサリン妃との離婚しようとしていることを批判し続けたために、処刑されてしまいます。
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 トマス・モア

地主らによるエンクロージャーによって農地を追い出された農民たちは職を求め都市へ流れ込んでいきます。
彼らは「工場制手工業」(マニュファクチュア)化された毛織物工場の労働者(プロレタリアートへと転身して、資本家に労働力を切り売りするしか生きる道がなくなります。地主階級だったジェントリーや独立自営農民であるヨーマンらの上層部は資本家となっていき、資本主義社会の新たな階級構造が生まれていきます。

もちろんエンクロージャーで耕地を追い出された貧農たちのすべてが労働者になったわけではなく、その多くが浮浪民となっていきました。ここで多くの貧困者が生まれ、都市で盗みをはたらいたり物乞いする者が多数いたといわれます。ヘンリー8世は72,000人の貧民を死刑に処しました。
当時議会でも増え続ける貧民問題が真剣に討議され、ヘンリー8世もまた貧困政策として王令を出すのですが、病気等のために働けない者と怠惰ゆえに働かない者に分類し、前者には物乞いの許可をくだし、後者には鞭打ちの刑を加えるといった懲罰的な政策でした。このブログサイトの生活保護の話でも書いた貧困の烙印(スティグマ)の原型といえるものです。

 生活保護利用者差別問題の記事

次回は絶対王政下で生まれたエリザベス救貧法やその改善を計ったスピーナムランド制度、そして自由主義思想やマルサスなどの古典派経済学者の影響を受けた新救貧法について述べていく予定です。

こちらでも政治等に関する記事を書いています。

「お金の生み方と配り方を変えれば 暮らしが変わります」

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