新・暮らしの経済手帖 ~時評編~

わたしたちの暮らしを大切にするための経済解説サイトを目指して開設しました。こちらは時評編で基礎知識編もあります。

プロテスタンティズムと絶対王政下で生まれた懲罰的なイングランドの貧民法(救貧法)

前回記事「資本主義経済黎明期における工業化と都市化が生んだ新たな貧困や格差の発生~ 」の続きになります。前回封建社会から資本主義社会へ移行するときのイングランドで地主(ジェントリー)や独立自営農民(ヨーマン)らが、当時高収益で稼げる毛織物の生産を増やすために、小作農たちを農地から追い出して羊を飼うというエンクロージャー(囲い込み)が行われました。この囲い込みがすべてではないのですが、都市に農地を追い出され浮浪民となった小作農たちが流れ込み、盗みや物乞いをはじめるようになります。当時のイングランド国王だったヘンリー3世は72,000人の貧民を死刑に処しました。

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ヘンリー3世

その後イングランドの議会で貧困者の増大が問題視され、ヘンリー3世は1531年に貧困者対策の王令を出します。
この王令は貧民を病気などで働けないものと怠惰ゆえに働かない者に二分し、前者には物乞いの許可をくだし、後者には鞭打ちの刑を加えるといった懲戒的なものでした。1536年にこの王令が成文法化され、物乞いを禁止する一方で、教区・都市ごとで救貧行政を行う単位を決めます。しかしながら貧困に対する懲罰という性格は変わらず、労働不能貧民に対しては衣食を施すものの、健常者の貧民は強制労働を課していきます。これが民法(原語の「Poor Law」は「救貧法」と訳されることが多いが、実態は貧困者を救うといったものではないため、当方では「貧民法」という訳を使う)の原型となっていきました。

「貧困はその者の怠惰によって起きたもので、懲罰に値する」という見方は現在の日本でも生活保護バッシングなどで未だに強く根付いているものであることを痛感しますが、そうしたスティグマ(貧困の烙印)が生まれたのはこの時代のことです。ヨーロッパのキリスト教圏で宗教改革の動きが広まる前までは教会が中心となって貧困者への救済を進んで行っていました。当時のキリスト教はまだ貧しいことは神の心にかなうという捉え方をしており、そうした人々に救いの手を差し伸べることは善行でした。
ところが宗教改革によって、貧者に対する見方が一変します。

マルティン・ルターは労働を「神聖な義務である」とし、「怠惰と貪欲は許されざる罪」であると述べました。彼は物乞いを怠惰の原因となるということで排斥します。さらに彼は貧民を『真の貧民』と『無頼の徒』を峻別して救済にあたる監督官をおくことを提唱しました。
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ルターではありませんが、新約聖書の一節を引き合いにし「働かざる者食うべからず」の考え方を強く打ち出したのもプロテスタントらです。このように貧者は神の御心にかなう者から、神に見放された者として扱われるようになり、懲罰の対象となっていきます。宗教改革だけではなく、浮浪民たち自身がが荒野や森林に住みつき、暴動や盗みなどを繰り返したことが、彼らへの蔑視を深めたこともあったでしょう。

話をヘンリー3世時代に戻しますが、その後貧困政策は1572年に健常者貧民への笞打ちなどを禁じ、各教区・都市に救貧監督官をおくといった改善が行われます。監督官は貧民の数を把握し、所轄地域から救貧税を徴収する任務を担います。救貧費用は自発的な寄付によるものから、救貧税を徴収する形となり、納税した者には選挙権を与えるといった見返りをつけたりしました。

ヘンリー8世の死去からから二代挟み、エリザベス1世の治世となったときに有名なエリザベス貧民法(旧救貧法)が制定されます。この貧民法は各地方が個別に貧困問題に対処するのではなく、国家単位で貧困政策を行うものとなりました。現行の社会保障制度の始祖というべき制度と評されることがありますが、とても福祉からほど遠い、貧困者の隔離・抑圧を目的とした前時代的な制度です。

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この制度は枢密院の下に地方行政を司る治安判事(県知事に相当?)を置き、さらにその下に貧民監督官を置いて救貧税の徴収と貧民対策を担わせます。監督官は
1 労働不能貧民の救済
2 強制労働させる懲治院の維持
3 徒弟に出す子どもの養育費を支払う
の3業務を行いました。

しかしこの貧民法は上の箇条書きでわかるように貧困者の救済を目的としたものではなく、貧民が暴動を起こしたり、盗みなどの犯罪を行って治安を悪化させることを防止することにあり、貧民を抑圧・排除するための法律でした。エリザベス救貧法という訳語は不適切でしょう。
貧民を収容し閉じ込める懲治院は強制収容所や刑務所のような場所で、収容者に苦役を課すばかりではなく、衛生状態が悪く、院内で疫病が拡がるような惨状だったようです。当然脱走者は後を絶ちません。

しかしながら18世紀に入りますと、慈善的・博愛主義的な救貧活動の動きが現れ始めます。
代表的なものはギルバード法やスピーナムランド制度で、貧民を矯正院や懲治院に収容する形ではなく、自宅で仕事をさせたり、生活費の補助を行うといった院外救貧が試みられます。

1795年にはじまったスピーナムランド制度について少し詳しく述べると、パンの値段と家族の人数から最低水準の生活費を算出し、それ以下の所得しかない貧困者に不足分を補うといった内容のものでした。よくベーシックインカムや給付付き税控除の原型のように伝えられますが、日本の生活保護制度に近いものでしょう。給付金の財源は地主階級からの土地保有税で賄います。ところがその後1814年あたりからイングランドは農業不況に陥り、地主階級が没落して救貧税の徴収がうまく行かなくなります。一方で貧民の数が増加して給付額が増えて制度破綻したと伝えられております。

この制度の破綻は
・救貧費を支給しても、企業家たちが労働者の賃金をその分削ってしまい、ますます労働者の貧困が加速した。
1810年ごろには当初の3倍以上に膨れ上がった重い救貧税負担に農民が耐え切れず、貧民化してしまった。
・救貧費を受けた貧民は働いても働かなくても収入が変わらず、勤労意欲が削がれた。

という理由だからだと云われ、ベーシックインカム導入失敗例として導入反対論者から用いられることがありますが、後で述べるようにそれが正確なのかはっきりしない点がいくつかあります。スピーナムランド制度はイングランド全域で広まっていた制度ではなく、この制度の適用を受けた救貧制度対象者はほんの一握りしかいませんでした。
 参考 京都大学の廣重準四郎氏の研究論文

それとスピーナムランド制度が導入された地区で逆に貧困が悪化したと云われているものの、同じ時期に近隣の導入されていない地区でも貧困が悪化しており、制度設計の問題でそうなったというより、イングランド全土で大不況に見舞われそうなったに過ぎないという指摘もあります。
さらにこの後で述べるように、新貧困法(新救貧法)制定の議論をしているときに、スピーナムランド制度廃止ありきで調査資料が捏造されていたという指摘も出ています。

19世紀に入ると近代的な自由主義思想が高々に唱えられるようになり、現在も経済学理論の血脈として受け継がれている古典派経済学が生まれます。トマス・ロバート・マルサスや彼の論争相手だったデヴィット・リカードゥといった古典派経済学者の主張によって貧困法の給付縮小や厳格化を計って抑制しようという動きが出ます。

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トマス・ロバート・マルサス

マルサスは1788年の著書「人口論」の中で、「人口は幾何級数的に増加するが、食糧は算術級数的にしか増加しない」と述べ、人口増加がこのまま進めば、イングランド社会の貧困が深刻になると警告しました。しかしながら彼の主張は、後の産業革命による工業化の進展で供給制約を克服できたことにより、崩れます。いわゆる「マルサスの罠」と呼ばれるものです。

しかしながらマルサスイングランドの人口がますます増加することは、さらなる貧困を生むのだから、人口抑制をしないといけない。ギルバード法やスピーナムランド制度のように貧民を甘やかすような政策を行うことは、勤労意欲の低い彼らが子どもを殖やして、ますます貧困を悪化させるのだと唱えていきます。

リカードゥもまた貧困者への公的扶助を行うための税を貧困者以外から取ることは、その人々の可処分所得を減らすことになり、経済成長を妨げると主張します。

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デヴィット・リカード

イングランド全体での救貧費が上昇し、救貧制度全体への不満が高まっていく中で、いくつかの議会報告書が提出されます。1834年に出された貧困補助制度を検討するこの報告書においてスピーナムランド制度の功罪が検証されており、この制度を「失敗」と結論付けました。ただし上で述べたようにこの報告書は特定の層からのみ聞き取り調査だけでまとめられたもので、かつ大多数のデータが調査前に集められていたという指摘があります。つまりはスピーナムランド制度廃止ありきで捏造された資料だということです。

こうしてやや救貧の性格を強めていた旧貧民法やスピーナムランド制度が廃止され、1834年新貧民法(新救貧法)が生まれます。 

新貧民法の概要
・スピーナムランド制は廃止。
・ワークハウス以外での勤労者の救済を厳しく制限、働くことの出来る人には働くことを強制し、それを拒否した場合は厳罰で臨む。
・地方の教区ごとの救貧対策を改め、恒久的な中央救貧行政局を設置。

新貧民法によって再び貧民を刑務所のように劣悪な環境の懲治院へ閉じ込め、強制労働を課したり、懲罰を与えるなど非人道的な処遇が再開されます。

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新貧民法はその後産業革命の裏で起きた資本家による労働者の酷使やそれによる深刻な貧困の拡大が進み、懲治院内における惨状が世間に周知されるに従い、改善の動きが現れます。しかしこの制度の基本的な路線は第2次世界大戦中までずっと引き継がれていきました。

最終的に新貧困法が廃止になるのは1948年に労働党のクレメント・アトリー政権が発足したときです。
この政権は「ゆりかごから墓場まで」といわれるように充実した社会保障制度を整備し、本格的な福祉国家を誕生させましたが、それまでずっと懲戒的な新貧民法に基づく貧困政策のままだったのです。

イングランドで生まれた貧民法は正確な統計と経済理論に基づいて貧困の原因を突きとめ、根本的な対処をする制度とはいえず、貧民に対し懲罰を与えて自助努力を促しさえすれば貧困は無くせるといった非科学的かつ迷信的な発想で生み出されたものに過ぎません。

プロテスタンティズム絶対王政が敷かれた中で生まれたイングランドの貧困法の考え方は今なお、日本の生活保護法や一般世間の貧困者に対する見方の中に根深く遺り続けています。2012年に発生した片山さつき自民党議員やネット右翼、極右活動家たちによる激しい生活保護バッシングも、今回の記事で書いてきたような思想・精神的背景がもたらしたものでしょう。

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 生活保護利用者差別問題の記事

生活保護バッシングの状況を見たとき、数百年前の亡霊かゾンビにでも出くわしたような感覚を私は覚えました。



こちらでも政治等に関する記事を書いています。

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