新・暮らしの経済手帖 ~時評編~

わたしたちの暮らしを大切にするための経済解説サイトを目指して開設しました。こちらは時評編で基礎知識編もあります。

純粋な自由主義と市場原理主義を目指していた産業革命期のイングランド

今回は前回記事「産業革命の陰で進んだ労働者の貧困 」の続いて、産業革命期のイングランドで起きた労働者階級のひどい貧困や治安悪化、ひどい公害と公衆衛生悪化による疫病の発生といった問題について述べました。

産業革命を推し進めた旗手である資本家・実業家たちの行動は封建社会の束縛からの解放を目指した自由主義思想や自由放任思想(レッセフェール)に裏打ちされたものです。さらにその奥にあるのは宗教改革を行ったプロテスタンティズムの精神でした。これは現在もなお、資本主義経済を成し続ける源流思想として引き継がれています。経済学は市場原理とはいかなるものかを探求し、それに忠実に従うことを目指すものです。
レッセフェールは元々(神が創った)自然の摂理や自然科学法則、天理に人間が黙って従うことで最高の調和が実現するという考えから生まれたものです。近代経済学の父であるアダム・スミスもそうした思想を引き継ぎ、市場原理という「神の見えざる手」によって、市場の調和が保たれると説きました。

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プロテスタントたちはローマ法皇を頂点とするカトリック派の権威を否定し、聖書という原典のみを拠り所としながら純粋な信仰を掲げています。支配者や権力者の発言ではなく原理や法を重視する姿勢だといっていいでしょう。レッセフェールを唱えたフィジオクラシー(重農主義)も人ではなく天理に従うという思想です。
封建社会が崩れ、絶対王政を経て、本格的な自由主義や資本主義社会へ移行していくイングランドをはじめとするヨーロッパ諸国では人間の権力者が生んだ恣意や裁量主義、規制を排除し、神や自然が生んだ原理や原則に近づいていくべきだという思想的流れが形成されていったといえるでしょう。人治から法治の時代への転換です。

現在にも通ずる古典派経済学もそうです。アダム・スミスをはじめとする経済学者たちは人間たちの恣意や裁量を徹底的に排除して純粋な経済理論の法則性を見出そうとします。現実世界で起きている経済的事象を自然科学的に数学や統計を用いて分析し、その法則性を抽出していったのです。

科学の世界では同じ条件で同じ操作をした場合、常に必ず同じ結果が得られるものでなければ真実であると認めません。そうした因果関係が証明されて法則や定理となっていきます。物理学や生理学などの実験ですと、真空状態とか無菌状態にしてやらないといけません。そうしないと同一条件にならないからです。
学校で物理学の勉強をすると教科書やテスト問題で「摩擦抵抗は0だと考える」とか「気圧は一定である」「温度は一定である」という但し書きがつきますが、そうした外乱要素がないという仮定がないと物理法則の因果関係を論ずることができません。物理の法則は摩擦抵抗やら気圧変化、温度変化といった枝葉を切り落とし、うんと単純化しないと幹である法則や理論が把握することは不可能です。こういうのを純粋化と名付けます。

やはり経済学の理論や法則といったものも、純粋化あるいは単純化させないと見いだせないものです。
現実世界で起きている経済事象は複雑な要因が絡み合っていますが、余分な雑味というか枝葉に相当する部分を捨象としてバサバサと切り落としていかないと経済理論や法則の抽出は無理です。
しかしながら現実世界に生きる人間はみな高い労働能力を備えた成人ではなく、子どもからお年寄り、病人や障碍者、男性がいれば女性もおります。生まれ持って得た能力も人によって違います。理不尽な格差や差別も遺っていますし、またさまざまな天災や事故、戦争などが次々と起きるのが現実世界です。そうしたものは経済理論の抽出の過程で捨象されることが多いのです。
産業革命期のイングランドで起きたさまざまな社会問題は、捨象された部分から発生したと考えていいのではないでしょうか。

立花隆氏が事実上の処女作として書かれた「エコロジー的思考のすすめ 思考の技術」(中公文庫)という評論文の中で科学の世界は本来様々な動きが絡み合っている自然界の複雑さを、きわめて単純化させて捉えており、それが科学の局部主義一部合理性の追求という弊害をもたらし、環境の破壊につながっているという話をされています。
イングランドの資本家たちも社会の全体合理性を無視して、自らの利益という部分合理性だけを極端に追及していました。その結果がロンドンを貧困と犯罪、汚染と疫病が蔓延る暗黒街にしてしまったのです。

正しい引用とはいえないですが、ノーベル経済学賞を受賞された行動経済学者のリチャード・セイラー教授は伝統的な経済学が想定する人間は人類ではなくEcon類だと述べております。超合理的で完全無欠な行動をとるという現実上に存在しない人間像が経済学の世界で想定されているという話です。セイラー教授のいうEcon類はまるで顔のないロボットのように、皆同じ思考で同じ能力、同じ行動をとるものだという非常に単純かつ画一化された存在であるかのように思えます。
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 リチャード・セイラー教授 インタビュー記事

先の記事でも述べたとおり、産業革命期はまだ幼児といえるような子どもまで一日15時間近くもの長時間かつ危険で過酷な労働に従事させられていました。彼らは教育をまともに受ける機会もありません。女性も男性と同じように過酷な労働を行います。家事や育児どころではなかったでしょう。このことはイングランドの資本家たちが彼らを年齢や性別など関係なく、”労働力”という画一的かつ単純な括りで見做していたために起こったことです。当時のイングランドは人間すべてをEcon類として扱い、自らもそれに近づこうとしていたように思えてなりません。

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さらに産業革命期の労働者たちは事故で手足を失ったり、煤を吸い続けて肺病を患ったり、マッチ工場の燐で顎の骨が溶けるといったことは当たり前でした。そうなってしまったら資本家から見捨てられ、寒空で野垂れ死ぬか、地獄のような懲治院に閉じ込められるかのどちらかです。このような事態についても資本家や古典派経済学者たちは「労働者の自己責任」とか「貧困はその者の怠惰によるものだ」という非常に単純な見方で切り捨てていたのです。

もうひとつ言い方を変えると、資本主義経済の勃興期におけるイングランド市場原理主義エンスージアスト(狂信的に憑りつかれて状態)であったのかも知れません。あるいは過剰適応をしようとしていた時代という言い方もできます。もっと単純な言い方をしますと極端化や一点集中化です。

ここで誤解がないように申し上げておきますが、私は日本の左派系や一部の自称保守系らが言っているような、反(新)自由主義や反資本主義といった主張をする気はありません
アダム・スミスやデヴィット・リカードゥらの古典派経済学者が導出し、今日のミクロ経済学においても普遍的法則と認められ続けている経済法則や市場原理は否定できないものです。その理論や論理に基づいて現在起きている不況や激しい物価変動といった問題を解決していかねばなりません

ただし経済学の理論は現実の複雑さを削り落とした極めて単純なモデルの中で導出されてきたものだという点を忘れてはならないということです。一度切り落としたものを再び再構築したり、復元するような作業が必要だということです。産業革命期にイングランドは労働者の貧困や工場からの排出物による汚染、疫病の発生といった問題に対し、工場法など新たなルールを創って解決を計ってきました。さらに後の時代になって整備されてきた社会保障制度もそうです。

王家や教会などといった封建的権力の力を削ぎ、無菌培養といっていいほど純粋化を徹底した自由主義市場原理主義に基づいた社会を形成しようとしていたのがイングランドの新興資本家・実業家たちと古典派経済学者でした。
しかしながら封建時代から存在した身分格差等が生んだ資産や所得の格差や、天候やその人の運不運といった不可抗力によって生ずる格差といったものを、完全にフラット化していたわけではありません。それが資本家階級と労働者階級の格差という形に転じ、さらに拡がってしまった時代だったといえます。

公害防止の環境規制や、労働者の権利を守る労働基準法、そして子どもや女性、高齢者、傷病者、障がい者の生活を守る社会保障制度といったものは、資本家や実業家たちの自由を奪い、束縛するもので、一見自由主義や小さな政府主義とは相反する制度や政策です。それは国家の経済分野への介入ではないかと言われたら否定できません。また市場原理主義の観点から見たら、それは不純物であり、異物と見做されるものでしょう。
しかしながらそうした一見不純物であり異物と見られるものを排除することで、結果としてわたしたちは大きな社会損失を被り、資本主義経済というシステムもまた機能不全に陥ってしまう危険に陥ってしまうのです。

上の立花隆氏の本の最後の方で次のように書かれています。
「人間はむしろ、ムダがムダとしか見えず、ムラがムラとしか見えない自分を恥ずべきなのである。逆に、一見ムダなしと見えた人工システムが実は恐るべきムダをはらんでいることを知るべきである。人工システムの合理性は、そのシステムの内部だけでの一面的な合理性である。トータルシステムとのかかわりとの中で検討してみると、それがとんでもなく非合理であることがしばしばある。
 公害企業は、企業の合理性の追求によって公害を生む。その結果は、人類全体にとって、むしばまれた健康、自然環境の破壊、ひいては人類の生存基盤の危機という恐るべきムダを与えている。」
「なぜ、小さなムダは見えても、大きなムダが見えなかったのか?それは合理性の追求が一面的であったからである。」

社会主義共産主義者たちは「資本主義経済の矛盾」という言葉を遣いますが、むしろ「(古典派)経済学の死角」という言い方の方がいいかも知れません。

わたしたちが恐慌などの深刻な不況や失業問題、貧困や格差の原因を探る上で重要な手がかりとなるのは経済学の理論です。それらは元々極めて単純化されたモデルをつかって一面的な見方から抽出されたものですが、それでも複雑な現実世界で起きている経済事象を分析していく上で欠かせないものです。単純化された経済理論という骨組みを再び肉付けしていきながら、いま起きている経済事象に対し、わたしたちはどう行動していくのかという答えを導出していかねばなりません。

ふだん小さな政府主義者である私は政・官による民への干渉を極力無くすべきだと唱えている立場ですが、前回・今回の記事でそれとは逆の内容のことを書いています。矛盾したことですが、そうした部分を抱えて生きていかねばならないのが現実といえましょう。

それが
です。イメージ 7

次回は資本主義経済と景気循環の発生についてです。


こちらでも政治等に関する記事を書いています。

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