新・暮らしの経済手帖 ~時評編~

わたしたちの暮らしを大切にするための経済解説サイトを目指して開設しました。こちらは時評編で基礎知識編もあります。

価格破壊が生んだ雇用破壊・技術破壊・文化破壊

今回も悪夢の1990年代についての話です。
バブル景気が崩壊したとき自分はまだ地方の大学生でした。自分が受講していたある講義を行っていた講師の方と懇意になり、毎週の講義が終わるごとに近くの喫茶店で夕食を共にさせていただきました。そのときにこの先生とバブル崩壊後の生活文化がどうなるのかという会話をしたことがあります。
当時の私は結構左寄りの思考で「脱工業化社会」とかを夢想していました。それこそ浮ついたバブル景気が収まり、大量生産・大量消費型の経済モデルから成熟したゆとりのある文化熟度の高い社会へと転換していくのではないかという甘い期待を抱いていたものです。しかしながら講師の先生はこれから日本はものすごく貧しくなって、ひどくチープなものばかりが溢れかえる世の中になるのではないかと予想しました。結果は私が外れで講師の先生が言われたとおりの世の中に日本はなってしまいます。

あと田中康夫氏と誰かがテレビ討論をしていたのですが、田中康夫氏はこれから量より質の時代で商品は高付加価値路線を追求すべきだという話をしていたような記憶があります。私の考えも田中康夫氏に近いものでした。これからの日本は大量生産・大量消費、薄利多売型モデルから脱するべきだなどと考えていたのです。
バブル崩壊から間もない1990年代前半はまだ華美でなくても良質なものに囲まれながら、豊かなスローライフを送ることが夢想できました。呑気な話です。

1990年代初頭にJR東海が「日本を休もう」というイメージCMを流していましたね。この時代はまだ悠長な空気感が漂っていました。

そうした私や田中康夫氏の淡き期待を裏切るかのごとく、1994年あたりから「価格破壊」といわれるディスカウントブームがあらゆる業界で起きはじめます。外食産業や衣料品をはじめ、クルマに至るまでその波が襲ってきます。バブル時代以上に大量生産・大量消費・薄利多売型の商品生産や販売方式が強化されました。「日本はいいものを安く造って売ってきたから世界市場を席捲できたのだ」という思い込みを持った経営者が多かったということです。

100円均一ショップで知られる大創産業(DAISO)の直営第1号店が登場したのは1991年、小郡商事がファーストリテイリング社と社名変更し、廉価指向の衣料品販売を行うユニクロの展開をはじめだしたのも同年、飲食業界が低下価格路線を邁進しだしたのもこの頃からです。吉野家すき屋といった牛丼チェーンは一杯400円程度で「うまい・やすい・はやい」を売り文句にしていましたが、やがて200~300円台まで価格を落とします。ハンバーガーチェーンのマクドナルドは当初商品は高めながらアメリカ生まれのハイカラなお店というブランドイメージを持っていたものです。ところがマックもやはりバブル崩壊後にどんどん低価格化を進めていき、1995年に210円→130円→80円に値下げしたり、2000年には半額キャンペーンで65円にしたりします。2002年には59円バーガーまで登場しました。
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ありとあらゆる業界における値下げ競争に当初「こんなことやって大丈夫なの?」と背筋が寒くなる思いをしましたが、だんだんと感覚が麻痺して消費者は10円・100円単位の値上げでも「うわ、高くなった」と感じるようになってしまいます。

自動車業界においても1990年代からコストカット、コストカットの連呼で、開発や製造が進められます。
トヨタのロスジェネモデル第1号であるビスタのCMで田村正和さんが「ふっきれている」といっていますが、このコピーを聞いて悲しい気分になったものです。
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しばらく後に登場したカローラも無残なほど安普請なクルマになっていました。それこそパッサパサの肉を挟んだハンバーガーみたいなクルマだったのを憶えています。(所有していた人スミマセン)

「ほしいと買えるがひとつになりました」なんてクルマのCMもありましたね。
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日産セレナの「モノより思い出」というコピーには背筋が寒くなったものです。

2019年になった現在スーパーなどの駐車場を眺めてみていると軽自動車やコンパクトカーの比率がものすごく高くなっています。高額な車種が買いにくくなっているということです。

「価格破壊」がその後破壊してしまったものはたくさんあります。それは前々回の記事「日本の貧困・経済格差は慢性的な有効需要不足が生んだもの 」と前回の記事「不確実性を増した1990年代の日本経済 」でも書いた雇用破壊が第一にあげられます。終身雇用や完全雇用が崩壊し、就労者の所得が目減りしたり、長期失業や非正規雇用が当たり前になってしまいます。
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次に技術破壊です。メーカーは金融引き締めや銀行の貸し渋りの他、デフレによる値下げ競争で収益率が下がらざるえません。価格をどんどん下げていっても市場のパイがじわじわ縮小し続け、販売量の方も稼げなくなります。これによって企業は新しい技術に対する投資がやりにくくなります。デフレ進行による企業の倒産や廃業はその企業が長年育て上げた技術を殺してしまうことでもあります。就業者もまた非正規雇用化や長期失業等で職能を磨く機会が奪われました。
1980年代まで自動車産業や電機産業は日本の花形であり、高品質でなおかつ廉価だということで世界中から高く評価されてきましたが、1990年代に入ると三菱自動車リコール隠し問題やトヨタの品質問題が取り沙汰されるようになります。前者は大財閥特有の企業体質問題が元凶だと見られていましたが、後者は渡辺捷昭社長時代の極端なコストカットと膨張主義がもたらしたと批判されることがあります。(池田直渡氏「豊田章男 生きるか死ぬか 瀬戸際の戦いがはじまっている」)

そして生活文化の破壊であります。低価格化競争によってメーカーと消費者共々品質へのこだわりを薄れさせていきます。チープなものでも構わないからもっと安いものをという消費者指向を招き、メーカーは高付加価値を追求した商品が企画しにくくなります。もちろんそうした商品を創る技術も腐食します。また消費全体のパイがどんどん縮小していくにも関わらず、メーカーや販売業者は大量生産・大量消費・薄利多売型のビジネスモデルを推し進めた結果、同業者同士のハンニバル(食い潰し合い)が発生します。弱肉強食経済の加速です。「勝ち組企業」「負け組企業」という言葉が出始め、企業の統廃合が目立つようになります。市場は少数の勝ち組企業が寡占するという寡頭市場となってしまい、商品の多様性がじわじわ失われていきます。
個人が飲食店を開業するなどといった起業を行っても、その7割が商売を軌道にのせられないまま開店後2~3年以内で廃業に追い込まれるといったことになります。

参考記事 未来経済研究室様 「デフレの話

デフレ経済下での異常な低価格路線や市場のパイ縮小は上で述べたように商品の多様性を失うだけではなく、過剰保守化・守旧化という問題も生みます。企業は商品の研究開発で膨大な投資を行わないといけないのですが、収益が目減りしてしまうと冒険ができなくなります。バブル期は「画期的なアイデアで面白そうだから、ダメで元々というつもりでやってみよう」といった挑戦的な商品企画をやるといったことが許されていましたが、バブル崩壊後は「絶対儲かるものを造れ!そうでないものは造るな!」という流れになってきます。カルロス・ゴーンが日産社内でクルマの開発者たちに「このクルマは何台売れるのだ。もしその目標に達しなかったら失敗だ」とコミットメントを強要しました。その結果日産のクルマが過剰に保守化してしまい、開発陣が萎縮してしまったという失敗をおかしています。日本の家電業界はソニーやシャープなど、柔軟でユニークな発想で生まれた商品を売りにしていたメーカーがいくつもありました。しかし家電販売が大手量販店主体へとシフトし、そこで着実に売れるものしか納入してもらえなくなります。量販店の顔を伺っての商品企画です。その結果日本の家電商品は画期性を失い、韓国のサムスンや中国のメーカーに国際家電市場のシェアを奪われることになります。

1990年代の金融政策と財政政策の過剰な引き締めが、企業の投資や個人の消費萎縮を招き、日本のモノ文化が気づかぬうちに粗末化していったのです。衣食住からクルマや電化製品に至るまでいかに値段が安いか・安くできるか一辺倒で商品を企画し、合理化を極限まで進めて生産し、売っていかねばならない時代が延々と続いてしまいました。このことは多くの人が優れたモノに触れるという機会を失ってしまうことになり、バブル崩壊後に生まれた人たちはそうしたモノの魅力を知らないまま大人になってしまうことになります。豊かな感受性が育ちません。そうなってくると高い魅力があるモノを創りたいという欲や情熱が失われ、人々の心を突き動かすような商品が生まれにくくなります。日本は高付加価値商品を生み出すことができず、いつまで経っても一人当たりの生産効率が伸びないことになります。

アベノミクスで思い切った金融緩和政策が実施され、企業の投資が劇的に改善しました。これによって企業は新たな人材を養成し、新しいモノを産み出すための研究開発や設備投資に力を入れるようになってきています。しかしながら20年以上の停滞が遺した深い傷は簡単に癒せないものです。人々の創造性や職能、そしてモノやサービスを産む情熱が潰された20年でした。長らく続いたデフレ不況は日本のモノづくり文化を衰退させ、需要不足不況だけではなく、供給力不足型不況も併発させる元となったのです。
1980年代まで花形だった日本の自動車や電機産業の競争力や販売シェアは韓国や中国といった中進国に奪われ、新たな情報技術産業の分野について日本は遅れをとっています。日本がかつて世界の中でも優勢だった産業技術競争力を奪い還すのは容易なことではありません。

衰弱した企業や一般消費者の経済力を回復するには、この先もしつこくしつこく金融財政政策を続けていくしかないのですが、20年以上の停滞があったのだから、回復も20年かかるという覚悟が必要でしょう。

次回は俗にいうロスジェネ世代の発生と世代間・生年格差、職能の腐食、社会保障制度の破壊といった問題を取り上げます。


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