新・暮らしの経済手帖 ~時評編~

わたしたちの暮らしを大切にするための経済解説サイトを目指して開設しました。こちらは時評編で基礎知識編もあります。

高度経済成長期に整備・発展した日本の公的医療保険・年金保険制度

これから各種社会保障・福祉・医療制度の問題について詳しく考察していきます。
まず最初は老齢および障害年金制度や健康保険といった社会保険制度から見ていきましょう。

前回にも解説しましたとおり、日本では現在以下の社会保険制度があります。
健康保険(医療保険) 老齢・障害年金保険 雇用保険 労災保険 介護保険

うち政治家や経済評論家、マスコミなどが財政問題として多く取り上げられるのは、老齢年金と医療保険でしょう。国家財政問題編でも述べましたが、現在日本の財政支出の中で最も大きな割合を占めるのは社会保障費で、年々急増しているのですが、その原因は少子高齢化にあるとされています。そのためには消費税率をどんどん引き上げないと「財政悪化ガー」と危機を煽り立てています。

確かに年金や医療費の歳出が膨張して財政を大きく圧迫していることは否定しようもないのですが、その原因は少子高齢化が進んでしまったからだと捉えるのは単純な見方でしかなく、財務省のペテンに引っかかっているようなものだということは「税と国家財政問題 」の「増税と緊縮財政が余計に財政悪化を進める謎 」で既に批判しました。このことは改めて取り上げるつもりです。
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いまの年金・医療保険財政が保険料収入だけで給付費を賄えなくなり、一般会計からの国庫負担に依存するという歪な状況をつくったのは1990年代初頭に日銀総裁を務めた三重野康の急激な金融引き締めによってバブル景気をクラッシュさせたことが元凶であり、橋本龍太郎の緊縮財政や終身雇用制度崩壊と非正規雇用の拡大がそれに追い撃ちをかけたのでした。これから説明するように日本の年金・医療保険制度は高度経済成長期を迎え、企業が終身雇用制度を導入しはじめた時代に整備・拡充されてきています。それを前提に設計された社会保険制度が三重野によって引き起こされたバブル崩壊によって綻びが出てしまったという見方ができます。いまの国民皆保険体制ができた当初の時代を振り返りながら、いまの社会保険制度の構造を見ていきたいと思います。

措置から保険方式へシフトしてきた社会保障・福祉・医療制度 」で述べたことですが、公的医療保険制度や年金制度は戦前から存在していました。1922年に公的医療保険である健康保険法が生まれており、1938年には貧しい農村などを対象とした国民健康保険が生まれています。年金については1940年の船員保険年金が、1941年には民間労働者を対象とする労働者年金保険法が制度化、1944年には女子にも対象を拡げた厚生年金保が登場します。ところが戦時中のひどい財政難と経済悪化によって制度破綻し、戦前の社会保険制度の多くは休廃止に追い込まれます。

終戦後の1947年に労災保険失業保険(雇用保険が制度化され、経済復興が進むにつれ、公的医療保険や年金制度の再整備がはじまります。ところが1955年までは農業、自営業などに従事する人々や零細企業従業員を中心に、国民の約3分の1に当たる約3000万人が医療保険の適用を受けない無保険者だったという状態が続きました。

日本国民すべてが医療や年金などの社会保険に加入し、受給資格を得られるようになったのは1961年です。この年にいまの日本の社会保険制度が確立したといえましょう。国民皆保険・皆年金の達成です。
女子を含めた民間企業の従業員を対象とした年金制度は上で述べたように戦前の1944年に厚生年金が制度化されていましたが、さらに農業・漁業・自営業者を含め、幅広く対象者を拡げた年金保険制度として国民年金制度が1959年に制定。1961年に施行されます。公的医療保険制度は1957年度から4カ年計画で普及拡大を進めていきます。

国民皆保険・皆年金体制が進められてきた1957年~1961年に総理大臣を務めていたのは今の安倍総理の祖父である岸信介氏です。(ただし岸政権が続いたのは1960年まで) 

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言うまでもなく岸政権は日米新安保条約の締約を巡って左派系の学生らによる激しい反対運動に遭い、その矢面に立たされます。当時国会議事堂に30万人も押し寄せるデモが行われました。
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戦後アメリカを筆頭とする西側・自由主義圏と東側・ソビエト連邦をはじめとする社会主義国陣営の冷戦がはじまりました。日本も共産主義勢力の拡大と侵食を阻止せざるえなくなってきます。
当時の公的医療保険・年金保険制度の整備は国民や労働者の生活不満を解消することによって、赤化を防止するという意味あいがあったことでしょう。

とはいえ岸総理が国民皆保険・皆年金体制の確立を目指したのは左派や国民が抱える不満のガス抜きだけが理由でなかったと思われます。岸信介氏といえば「A級戦犯」「勝共連合」「アメリカ・CIAの手先」「昭和の妖怪」などと暗い極右政治家という印象を強く持たれていますが、学生時代には社会主義思想に興味を持ち、マルクス資本論を読んだこともあるという一面も持ち合わせています。岸氏が農商務省官僚になったのも「これからの政治の実体は経済にあり」という思想に基づくものであり、その後天皇制護持の国粋主義者ながら共産主義的な志向を持つ革新派官僚となっていきのです。(そのおかげか阪急東宝グループの創始者で商工大臣を務めた小林一三氏から「岸くんはアカか!」と叱責されたこともある。) 

そうした点を踏まえると岸氏が厚生行政にもまったく無関心ではなかったことも合点がいきます。
1958年に行われた衆院選挙で、岸氏は、「国民年金制度は今回の公約で最も注目すべきものであり、これを実施することにより、社会保障の画期的前進を期したい。これにより生活力に恵まれない老齢者、母子世帯、身体障害者の生活が保障されることになり、福祉国家の完成へ大きく前進することになると信ずる」と述べています。ちなみに安倍総理も厚生労働族議員です。

 国民皆保険・皆年金体制構想は元々鳩山一郎氏が提唱した「全国民を包括する総合的な医療保障」が始点であり、それを石橋湛山内閣がそれを継承したものです。岸氏はさらにそれを引き継いだという形でしかないのですが、それでも氏の政権時代に制度を確立させたという点で大きな功績を遺したといえましょう。、

話が少し脱線しましたが、厚生年金・医療保険制度の対象者となる労働者を雇い入れる企業が、労使折半で一部保険料負担をする形を受け入れたのも、左派勢力の増大で激しくなる労使間紛争が背景にあったものだと想像されます。当時企業の経営者たちは「労働者から労働力を搾取し、富や財を殖やさんとする独占資本」として労働組合から吊し上げられました。自分の会社の従業員にきちんと富の分配をやって厚生福利に努めているという姿勢を示すことで、労使対立をおさめようという考えが出てきます。一度雇った従業員を家族のように扱い、よほどのことがない限り解雇しないという終身雇用制度が定着し出したのも、この時代あたりからです。

国民皆保険・皆年金体制が確立されたときの歴史背景の話はこの辺で留めておくとして、今も続く公的保険制度がどのような構造になっているのか見ておきましょう。

戦前より厚生年金・厚生健康保険をはじめ、公務員や大手企業、業界団体等が組織してはじめた共済組合や、船員保険などが各自バラバラに濫立していました。国民皆保険・皆年金が確立した後も各制度は会計が独立しており、その制度ごとに保険料を徴収したり、給付する形になっていました。しかし年金制度については昭和61年より国民年金を基礎年金として位置づけ、すべての国民に加入させることになり、厚生年金制度や共済組合に加入していた人はオプションという形で上乗せする制度構造に変わりました。2階建て構造です。
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保険料負担は国民年金のみに加入している第1号被保険者は自分で保険料を支払いますが、当初は1/3、現在は1/2を国庫負担しています。後にお話しますようにバブル崩壊後にこの国庫負担が国の一般会計の社会保障費支出が膨張する要因となっています。
厚生年金や各共済組合の被保険者は下の図ですと、被保険者の月給の18.3%負担と書かれていますが、労使折半で半分が会社負担です。
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健康保険制度については以下のようになっています。

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制定された1959年当時には最善といえる日本の社会保険制度でしたが、それは高度経済成長に支えられ発展してきたものであり、終身雇用と年功序列という家族主義的な企業福祉に依存するものでした。
冒頭で述べたように1990年代にバブル景気が崩壊し、終身雇用制度が崩れ、非正規雇用が拡大してきたり、当たり前だった完全雇用が崩れてしまうと制度が成り立ちにくくなってきます。もちろん急激な少子高齢化の影響を否定できませんが、「失われた20年」といわれる長すぎる日本経済の停滞期が少子化をますます進行させたことも考えられるでしょう。次回以降はその問題に触れていきます。

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