新・暮らしの経済手帖 ~時評編~

わたしたちの暮らしを大切にするための経済解説サイトを目指して開設しました。こちらは時評編で基礎知識編もあります。

生活保護制度はなぜ生まれた?

前回から生活保護問題に入りましたが、この制度のはじまりから基本的な制度の考え方、給付の仕方等について述べていきます。ネット上の会話とかを読むとかなり生活保護制度のことを理解していないのではないかと思われる発言が見受けられます。

まずは簡単に生活保護制度が生まれた背景についてからです。この制度が登場したのは第2次世界大戦直後の混乱期であった1946年(昭和21年)のことです。当時は言うまでもなく焼け野原の中で国民は食糧難や高失業、悪性インフレに苦しめられます。戦地から戻ってきた兵員や満州などから命からがら引き揚げてきた人たちも多数おりました。親兄弟を失った戦災孤児たちが食糧や物資を盗んだり、戦前の価値観・権威・道徳観が完全に崩壊した中で愚連隊がアプレゲール犯罪を繰り広げるなどして治安もひどく悪化します。

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日本政府はこうした悲惨な状況に何の手立ても打てませんでしたが、当時日本を占領していたGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は日本政府に国民の救済に関する指令を出します。これによって制定されたのが旧生活保護法です。

生活保護法が生まれる前である戦前にも日本にイギリスの救貧法を模した恤救規則や救護法といった救貧政策がありましたが、国が窮乏した国民を扶助する義務がないもしくは不十分で、国民が救護を必要とするときに受給を請求する権利がないものでした。役所から保護を拒否された際や保護内容に不満がある場合の「不服申し立て権」も明記されていません。そのためひどく限られた窮乏者しか保護されず、総人口の2.4%に過ぎなかったと云われています。

生活保護法は国の扶助義務を明記しましたが、国民が生活保護を請求する権利までは認めていません。さらに働ける能力があるのに働こうとしない者、つまり稼働能力のある者は保護の対象から除外するという欠格条項も存在していました。

しかし旧生活保護法が生まれた翌年の1947年5月3日より、新憲法である日本国憲法が施行されます。

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この憲法GHQの指導下で作成され、個人の尊厳や国民の権利、自由意思、民主主義を尊重したもので、第25条において
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する国はすべての生活部面について、社会福祉社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」
と定められます。

生活保護法も1950年(昭和25年)に憲法第25条の精神を反映したものに改正され現行制度となります。現行生活保護法で保護を申請する権利と役所の決定に不服がある場合に申し立て最終的には裁判を起こすことができる権利、そして働く能力の有無を問わず生活に困窮していれば理由を問わず生活保護を利用することができるといった規定が盛り込まれます。

現行の生活保護法は次の4大原理と原則に基づき制度設計されます。
原理
・国家責任の原理
・無差別平等の原理
・最低生活維持の原理
・補足性の原理
原則
・申請保護の原則(生活保護法第7条・第24条)
・基準及び程度の原則
・必要即応の原則
・世帯単位の原則

現行生活保護法に導入された原理でいちばん画期的であったのは国家責任の原理でしょう。国民がひどい貧困で窮乏しているときは国家が責任を持って保護しなければならないという義務を定めたのです。国家が「貧困に陥ったのはその本人の自己責任だ」などと言い逃れすることは許されなくなったのです。
無差別平等の原則によって、保護要件を満たせば日本国民の誰もが、生活困窮に陥った理由や過去の生活歴及び職歴等は問わず生活保護の支給を受ける権利も認められました。
そして世帯単位の原則ですが、これも国家が親族に扶養義務を押し付けるような、戦前・戦中までの封建的な家父長制度から脱した考え方であると見ていいでしょう。
必要なときに即応で保護を開始するという原則も重要です。

このように保護を受ける国民の権利性や保護を行う国家の義務付けが強化された現行生活保護制度ですが、給付水準が十分でなかったり、行政による保護決定が厳格過ぎる上に柔軟性を欠くなどして、過去数十年の間に多くの不幸な事件や紛争・問題を引き起こしています。
生活保護を巡る裁判といえば、1957年に結核で療養所に入院していた岡山県津山市の朝日茂さんが起こした「朝日訴訟」が有名で「人間裁判」と呼ばれました。朝日さんは国から月600円の生活保護を受けながら療養を続けていたものの、津山市社会福祉事務所長は朝日氏の実兄に1500円の仕送りをするよう命じ、保護廃止させようとします。これに朝日さんは岡山県知事と厚生大臣に不服申し立てをするも却下され、訴訟を起こします。当時の月600円という保護費は肌着が二年で一枚・一年でパンツは一年一枚しか買えないようなものでした。
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それから時代が下り、世間がバブル景気に湧き上がっていた1987年に札幌市白石区で母子家庭の母親が3人の子どもを残して、栄養失調により餓死をした状態で発見されるという痛ましい事件が起きます。この母親は役所に生活保護の申請を行うも却下され、何も食べられず栄養失調で死に追いやられました。このことをルポルタージュとして取り上げたのが寺久保光良氏の「福祉が人を殺すとき」でした。

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こうした痛ましい事件がおきた直後は国や行政は生活保護の給付の拡大や保護行政の改善を進めますが、しばらく経つと財政難を理由に生活保護の受給引き締めを始め出すことの繰り返しでした。2012年に起きた生活保護バッシングが最も醜悪な例といえましょう。

生活保護のような公的扶助制度は日本に限らず、受給者への差別や偏見が付き纏ってきました。その一方で扶助を受けられない貧困者が餓死したり、自殺に追い込まれたりするなどといった事件が数えきれないほど発生しています。逆に生活保護受給者がケースワーカーに対し暴行や傷害行為を働くといった事件も起きています。

後ほど役所による「水際作戦」や「硫黄島作戦」といった受給申請妨害や訪問調査の問題なども、ここで取り上げますが、生活保護は利用者側にとって非常に申請がしにくく、逆に一度保護を受けたら簡単に抜け出せないといった問題や難点をいくつも抱え込んでいます。保護費支給の可否を決定し、利用者の生活状況の把握や指導を行うケースワーカーたちもまた行政上層部と利用者との間で板挟みになり、時には自分の身や精神を危険に晒しながら業務を続けているのです。

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