新・暮らしの経済手帖 ~時評編~

わたしたちの暮らしを大切にするための経済解説サイトを目指して開設しました。こちらは時評編で基礎知識編もあります。

「働かざる者食うべからず」について考えてみる

ベーシックインカムの研究をしていると、必ずぶつかる大きな壁が「働かざる者食うべからず」という反発です。
正直好きな言葉ではありません。

こちらが構想しているベーシックインカムや給付付き税控除案は、当面モノやサービスの生産をはじめとする社会的活動全般において、まだ人間の労働を必要とする場面が今後数十年に渡ってかなり残されるという状況を前提にしております。これまでどおり所得は就労で得た賃金で賄うことを基本とし、ベーシックインカムや給付付き税控除を補助的に支給するといったかたちで制度を創設していく形です。
とはいえどBIや給付付き税控除の給付について勤労の義務付けみたいなことはしないでもいいと考えています。

社会のため、顧客のために献身的に貢献した人に対し、それに応じた報酬を支払うのは当然です。貢献度に応じて分配する所得に差をつけることで、勤労への意欲を高めていくことができます。とはいえど「働かざる者食うべからず」が絶対的なものかというとそうではないというのが私の考え方です。世の中はそこまで単純な二分法で分別できない面があります。

「働く」というのは「社会貢献活動」と見做していいでしょう。
しかしながら「儲ける」と「働く」が必ずしも同一であるとは限りません。ほとんどの人は働いて儲けているかと思われますが、中には他者からの搾取や利益誘導(レントシーキング)、株式や不動産などといった投機行為といった不労所得だけで何千万円や何億円も儲けている人がいるでしょう。逆に自己犠牲的といってもいいほどの社会貢献をしている人でも、経済的に優遇されているとは限りません。
知らず知らずのうちに人々の価値観が「働かざる者食うべからず」から「儲けざる者食うべからず」にすり替わっているのです。

「働かざる者食うべからず」という思考の原点はキリスト教新約聖書に含まれている「テサロニケの信徒への手紙二」3章10節に綴られている「働きたくない者は食べてはならない」という一節にあります。ここでの「働きたくない者」には当然傷病者など働けない者を含んではいません。
「貧困はその者が怠惰であるからである」といった見方が非常に強くなったのはヨーロッパのキリスト教圏で宗教革命がおき、プロテスタンティズムが強まってきてからです。


マルティン・ルターは労働を「神聖な義務である」とし、「怠惰と貪欲は許されざる罪」であると述べました。彼は物乞いを怠惰の原因となるということで排斥します。
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そしてロシアで社会主義革命を指導したウラジーミル・レーニンは労働者階級からの搾取による不労所得で荒稼ぎをし、贅沢三昧をする資本家たちに対する批判として「『働かざるものは食うべからず』は社会主義の実践的戒律である」と書いた論文を共産党機関紙プラウダに寄稿します。

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いずれにしても「働かざる者食うべからず」という言葉は労働という形での社会貢献をしようとしない者に対する非難として用いられてきたものでしょう。「尽くさざる者食うべからず」といった方がいいのかも知れません。多くの人々のために善行を行い、貢献してきた者を褒めたたえ、多くのものを与えることをするのは当たり前のことです。社会のため、他者のために尽くしてきた者に対し、手厚く富や財を分配するような社会的契約やルールがなければ誰も公益のために汗を流し、労苦を負うようなことはしなくなります。

とはいえど現実社会において、どこの会社や組織でもその人の社会貢献度が公正に評価されていると言い切ることはできません。経営者が従業員や顧客を欺くように自分ひとりで利益を独占したり、専制君主的な企業統治をしているといった事例は山ほどあります。そうしたサイコパス的な経営者や会社に押し潰され、身も心も傷付き、貧困に陥ってしまうような理不尽な話はいくらでもあるでしょう。ですので上で述べたように「稼ぐことに成功した人」=「努力した人」だとか「立派な人」だとは言い切れないのです

今出世してお金持ちにならないている人が、本当に社会のために貢献し続けた人格者なのか?
あるいはいま貧困に陥っている人がほんとうにその人の努力不足や能力不足だけでそうなったのか?
いちいち他人がこと細かく調べ上げることはできません。

だから割り切って、ある一定以上の所得や資産がある人はその一部分を、そうでない人のために分けてあげてください、あるいは逆にいま生存が危ぶまれるほど困窮している人には理由を問わず、とりあえず救済しましょうといった社会的な約束事をつくるしかないと思います。ひとつの暫定解です。

とりあえず国民全員に生きるために必要なお金は配りましょう、所得をうんと増やして立派な家やクルマを買ったり、美味しいものをいっぱい食べたい人は働いて努力をしてくださいでいいかと私は思います。
運動会の競争で一等賞の子には立派な景品を与えるけれども、参加した子ども全員に一本づつジュースを配るといったことぐらいはしていいのではないでしょうか。

それぐらいの包容力がある社会がすべての人に暮らしやすい世の中であると私は信じます。

「お金の生み方と配り方を変えれば 暮らしが変わります」

サイト管理人 凡人オヤマダ ツイッター https://twitter.com/aindanet

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